手取り13万円で300万円超の借金を返済出来るのか?からの自己破産で再生への道...

手取り13万円の苦悩。私が多重債務者になってしまった理由と、その奇妙な生い立ち。

こんにちは、翔馬(@shouma911)です。

手取り13万円の私が何故、多重債務者になってしまったのかという事を最初の記事にしたいと思います。

ちょっと長くなりますが、先ずは私の生い立ちから…。

その奇妙な生い立ち。

プロフィールにも書いて有る様に、私は1973年、東京都に生まれました。

私の母方の父、まあ祖父なのですが、かなりの資産家で、私が産まれる事を知った際、神奈川県の横浜に一戸建てを建ててくれました。

なので、産まれて直ぐ、東京から神奈川県へ転居です。

父は建築家で、建築事務所に務めていて、幼少期は割と裕福に生活していました。

3歳上の姉は幼少期からピアノを習っていて、自宅にピアノが有ったので、それなりの暮らしではあった様です。

私が物心ついた3歳の時に、弟が産まれ、何不自由のない生活をしていました。

そんなある日、母から引っ越しをすると言われ、同じく、神奈川県の横浜の一戸建てに引っ越しをしました。

当時はまだ3歳で、その状況を理解出来るはずも無く…。

まあ、なんとなく引っ越しをする事になりました。

実は家を借金の型に取られていた事が判明する。

そして私が4〜5歳の時、祖母と母に連れられて、横浜市内の麻雀店に毎晩通っていた事を思い出します。

私は幼いながら、なぜ毎晩、麻雀店に連れて行かれたのかを理解していなかったのですが、5歳を過ぎた頃に、ようやくその意味を知る事となりました。

その理由は…。

私の父が、仕事上で、上司とソリが合わなかった様で、憂さ晴らしで毎晩麻雀をしていた事が判明します。

私の母も、祖母も、父がどこの麻雀店に居るかが分からず、横浜市内の麻雀店を片っ端から探していたそうです。

そして、父を発見するも、父は麻雀を止める事もなく、帰宅は毎晩午前様。

当時はあまり理解していませんでしたが、小学生の高学年になる頃に、ようやくその事態が如何にひっ迫していたかを知る事となります。

最初に祖父が建ててくれた一戸建ては、父の麻雀での借金の型に取られていた事も判明。

今は亡き、母から聞いた話しでは、最初の家を借金の型に取られた際、祖父は激怒した様ですが、それでも初孫の私たちが可愛かった様で、渋々、2軒目の一戸建てを新たに建ててくれた様です。

しかし、父の麻雀屋通いは隠れて続いていた様で、2軒目の家も、麻雀で出来た借金の型にまたもや取られてしまった様です。

今でも、賭け麻雀は行われている様ですが、私の幼少期、昭和の中頃は、俗に言うヤ◯ザの方々が闊歩していた時代で、賭け麻雀。

俗に言う賭博麻雀のレートは非常に高く、殆どの麻雀店は、そのヤ◯ザの方々がバックに付いていて、家を担保にお金をどんどん貸してくれていた様です。

たったの5年ほどで、家を2軒、借金の型に取られたと言う信じられない事態がまかり通っていた時代だったのですね。

最初の家こそ、4LDKという間取りの家でしたが、2軒目の家は、母の趣味のお琴の部屋、広いリビングルームには、姉が習っていたピアノもあると言うぐらい、広い家で、私の記憶では部屋数が6部屋に、食事を取るダイニングキッチン、2階にはミニテニスが出来るほど大きなベランダ。

そして駐車場に、広い庭が付いていると言う、今で言ったらおそらく億超えの素晴らしい一戸建てだった記憶が有ります。

その2軒目の家は、俗に言う高台の一等地で、少し下がったところには、警察のお偉いさんの豪邸が有ったほどの一等地でした。

そんな、素晴らしい家も、賭け麻雀の借金の型に取られてしまい、流石の祖父も、仏の顔も…と言う事で、その時は許してくれず、家を失った私たち家族は、母方の実家に間借りする事となりました。

そして父は家に帰って来ず…。

私たち家族は結局、祖父の家で間借りする事となりましたが、それでも父の賭け麻雀の癖は治らずで、次第に家に帰って来る事もなくなりました。

私が祖父の家に引っ越したタイミングは小学生に上がる頃で、ちょうど小学1年生の時に東京に帰って来て生活をしていました。

しかし、父は殆ど家に帰る事も無く、ほぼ母子家庭状態に。

そして、私が小学6年生になる頃、私の叔父が結婚し、祖父の事業の後を継ぐ事となり、私たち家族は祖父の家からも出されてしまい、2Kのアパート住まいになりました。

そして、父は帰って来なくなるだけならば良かったのですが、給料を家に入れる事も無くなり、困った母はパート務めをする事に。

今、考えてみると、その時代のパート勤めのパート代では、家賃を払うのが精一杯だと思いますので、おそらく、祖父が内々に援助をしてくれていたのだと思います。

父が帰って来ないぐらいでしたら、特になんという事は無かったのですが、父は麻雀で2軒も家を取られたにも関わらず、あいも変わらず麻雀通い。

そして、借金をしまくっていて、当時のサラ金にお金を借りていた様ですが、その際の住所と電話番号を私たちの家にしていたので、早朝から深夜まで借金の督促の電話が鳴り止まずの状態に。

当時は今の様に、督促の電話などの規制は無く、本当に早朝から深夜、いや、明け方まで毎日督促の電話が鳴りっぱなしの状態に。

当時のサラ金業者のほとんどがヤ◯ザの方々の生業で、当番制で業務をしていたのでしょうが、本当に一日中、電話が鳴りっぱなしでした。

母も、姉も日々怯えて暮らす毎日で、電話の対応は全て私がしていました。

そんな中で、私が高校生になる頃、見かねた祖父が、祖父の所有している物件の一つのアパートを改造してくれて、2部屋を繋いでそこに住む事となります。

その頃には、もう父の顔は3〜4年見ていなかったぐらいで、私はてっきり、もう父と母は離婚をしていたと思っていましたが、なんとも…。

母は死ぬまで父とは離婚をしていなかった様です。

そんな私も、高校を卒業し、専門学校に入学し、日々勉強をし、楽しい学生生活を送っていました。

その頃には、もう電話番号も変え、父もサラ金業者に私たちの家の住所や電話番号を伝えられなくなり、ようやくサラ金業者からの督促の電話から解放されました。

学生時代の私は、勉強に励みつつ、学生生活を楽しんでいました。

これも後から母に聞いた事なのですが、私立高校の学費に専門学校の学費は全て祖父が支払ってくれていたとの事。

姉も私立の有名大学に通っていましたし、弟も私立の高校に専門学校でしたが、それら全てを祖父が支払ってくれていたとの事で、今でも祖父の命日にはお墓参りに行っています。

社会人時代。

私は大学こそ出ていませんが、高校はかなり偏差値の高い高校に入学し、その時に学びたかった専門学校も卒業し、1995年、割とメジャーな会社に就職。

そして順調に昇進し、二十代半ばで結婚をし、子供にも恵まれてとても幸せな人生だったのかと思います。

20代後半で年収が700万円を超え、昇進も順調で、そこそこのポジションにもつき、本当に幸せな生活を送っていました。

しかし…

そんな幸せも脆くも崩れてしまう事態が起きました。

当時は原因が不明だったのですが、身体に変調をきたし、日々の仕事が苦痛になる。

原因は不明だったので、どうして良いかも分からずで、病院にも行ったのですが、医者でも原因が分からないと言う。

当初は我慢を重ねて出社して仕事をしていましたが、症状が重くなるにつれ、それも困難な状況になってしまった。

会社には休職願いを提出し、自宅療養をしていましたが、その期間も当時の会社の服務規定での休職期間を過ぎてしまい、結果、解雇となってしまいます。

それでも、しばらくの間は、貯金での生活で凌いでいましたが、それも数年で底をついてしまい、日々、家で寝ている私を、妻は不審に思い、結果的には離婚という事になってしまいます。

妻も、最初の1年ほどは我慢をしてくれていて、心配もしてくれていましたが、3年もその様な状態が続くとやはり見限られますよね。

まあ、自分でも、よく3年近くも耐え忍んでくれていたと今は思います。

まだ産まれたばかりの三女も、2歳の時に離れ離れとなってしまいました。

病気の原因が判明も時すでに遅し。手術入院する。

その後、離婚をし、1人で闘病生活を送っていましたが、二つ目の大学病院で、ようやく原因が判明しました。

なんでもちょっと珍しい難病の様で、最初の大学病院では原因が分からなくても仕方がないと言う医師からの説明。

そうはとは言え、内心、なんでもっと早く病気の原因が分からなかったのか?

なんて、今では思ったりしています。

そして、病名が判明し、その病気にはかなり大掛かりな手術が必要との事で、入院し、手術をしました。

当時、もう貯金はほぼ底でしたが、サラリーマン時代に加入していた二つの保険のおかげで、入院&手術費は賄えて、なおかつプラスになりました。

退院してからは、その病院の付属病院でしばらくの間、リハビリ療養をし、最初の入院から8ヶ月ほど経って、ようやく退院しました。

しかし、最初に体調に異変をきたしてから、その期間、およそ5年ほど。

長い闘病生活にも終止符を打つ事が出来たのですが…。

生活のために、アルバイトをしながら就職活動。

リハビリ入院も終わって、身体の調子も少しずつ上向きになって来た時に、仕事を探さなくてはならないかな?

っと思い、転職サイトの「リクナビネクスト」と「デューダ」などに登録をしながら、とあるところでアルバイト生活を送ります。

しかし当時の世の中はちょっとした不況で、転職サイトに登録するも、なかなか以前の様な条件は壊滅的。

かなり粘りながら、職を探していましたが、やはり以前の様な条件での再就職は難しく、条件を下げて面接を繰り返すも全滅。

正直、私の持病の難病も就職の条件に合わず、日々苦労しながらアルバイトをしていました。

そんな状況が2年ほど経ち、もう以前の様な条件ではまず無理で、以前の条件の半分ほどの企業にさえ面接で受からずで萎えていました。

どんどんと条件を下げて行くうち、ようやく見付かったのが現在の会社。

その就労条件はとても厳しいもので、面接では合格したものの、少しの間、考えてしまいました。

しかし、転職サイトの担当者の方からも現在の私の応募条件で、これ以上の会社への入社は難しいとの助言を受け、仕方なく就職をする事にしました。

就職した会社は俗に言うブラック企業でした。

そんなこんなで就職したとある企業。

最初に提示されていた条件で、ちょっと無理かな?

などと思っていましたが、それでも受け入れながら就職をするも、いざ職についてみたら条件が違う…。

当初、転職サイトで提示されていた条件は、入社と共に儚くも消え去り、現在の手取り収入が月額で13万円という非常にブラックな企業でした。

当初の条件では、週休2日制で、手取りの額面も計算したら17万円程度で、残業は無し、ボーナスも年に2回で月額給与の2ヶ月という事でしたが…。

実際に働き始めてから気付いたのですが、手取りの給与は13万円少々で残業こそ有りませんでしたが、ボーナスは年に2回、5万円程度という劣悪な条件でした。

就職し、半年ほど経過した際、上司にその事をさり気なく聞いてみたところ、「今は不況だから…。」との事でスルーされてしまいました。

俗に言うブラック企業に就職をしてしまった様です。

そして多重債務者に…。

そんな私が何故、多重債務者になってしまったかと言うと、以前の会社時代の仲間との交際が未だ続いていた事が理由の一つ。

病気をし、退職するまでは、年収が700万円を超えていて、取引先の方との交流も盛んでした。

その時の会社の仲間や、取引先の方との交際は継続していて、飲みの席に誘われることも有り、そのお誘いを断ることも出来ずで、3回に1回程度は参加していました。

その時の私の手取り収入は13万円程度。

しかし、以前の職場仲間や、取引先の方との交際は年収が700万円を超えていた時のままの状態で、飲みに行く際のお店のグレードもその価格帯のお店でした。

人間には「見栄」と言う、厄介なシロモノがついて来るらしく、その時に、現在の会社の条件などを聞かれた際、ちょっと盛って話をしてしまい、飲み代は割り勘も、私の手取り収入で飲めるクラスのお店だは無かった。

当然、手取り13万円程度で、その様なお付き合いをしていたら、直ぐに破綻してしまいますよね。

なので、最初はわずかに残っていた貯金を切り崩し、お付き合いに参加していましたが、それも直ぐに底をつき、誘惑に負けて銀行系のカードローンに申し込んでしまいました。

これは多重債務者の方アルアルだと思うのですが、最初は3万円だけ!?

って心に決めていたものの、その次は5万円ぐらいまでならばボーナスで返済出来る!?

などと思って借金を重ねていましたが、それが10万円になり15万円になり、30万円になり50万円になって行きました。

そうなって来ると転落は早いもので、銀行系のカードローンの増額にまで手を出してしまい、気付いたら限度額の100万円に到達していました。

銀行系カードローンで、借りたお金が30万円ぐらいまでならば月々の返済額は1万円以内で返済出来ていたのですが、限度額の100万円ともなると、月の返済額が25.000円に…。

これも多重債務者アルアルなのでしょうが、お金を借りる際は、なんで増額出来ないの?

なんて思っていましたが、いざ借金の枠が増額されて、限度額一杯まで借金をした際に思う事は、「なんで限度額一杯まで貸し付けるんだよ!?」などと言う身勝手な思いです。

銀行系のカードローンの場合、総量規制が無かったので、実際の給与よりも多く申告して借金をしていたので、限度額が100万円にまで膨れ上がってしまったのでしょう。

そして、カードローンの返済が出来なくなり、困った私は「クレジットカード」のキャッシングにまで手を染める事となり、キャッシングの限度額の50万円に到達するまでが本当に早かった。

こうして、私は多重債務者になってしまいました。

借金150万円で多重債務者?

この記事を読んでいる方の中には、「借金150万円で多重債務者?」と思われる方も多いかと思います。

確かに、一昔前までの私の収入でしたらそう思ったかも知れません。

ですが、月の手取り額が13万円少々の私にとって、「銀行系カードローン」と「クレジットカードのキャッシング」の返済、あわせて月の返済額が40.000万円となると話しは別です。

手取り月収が13万円で、毎月の返済額が4万円と言うのは、もう頭がおかしくなるぐらい、本当に危険な水域の話しになります。

単純計算で、手取り月収が13万円で、そこから毎月の返済額が4万円となると、残るお金は9万円になります。

そこから「家賃」、「光熱費」、「食費」、「雑費」を賄わなければなりません。

これはもう本当に地獄の生活です。

毎晩、眠れなくなるぐらいの強烈な不安感に襲われます。

今の会社に就職して7年ほど経ちますが、給与は一向に増えず、借金の返済に追われる毎日です。

今思うと、なんで、あの時、借金をしてしまったのだろうか?

と、考えるも答えはありません。

もう本当に、今は日々、生きて行くのが辛いです。

ですが、これは自分で蒔いた種…。

自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。

ですが…。

今は、借金の総額、200万円を超え、返済出来る目処は立っていません…。

借金さえ無ければ、手取り月収が13万円程度でも何とかなったのかも知れません。

ですが…。

いや、これ以上はもう本当に一杯一杯です…。

もう、自己破産して、一からやり直すしか方法は無いのかな?

つくづく、自分の運の無さ…。

いや、馬鹿さ加減にうんざりし、後悔する毎日です…。

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